心が強い弱いという区分は好きではありませんが、世の中には心が強い人もいれば、心が弱い人もいます。
様々な人たちがいて世の中が成り立っています。
ですから、全員が心を強くする必要はありません。
心が強い弱いという区分は好きではありませんが、世の中には心が強い人もいれば、心が弱い人もいます。
様々な人たちがいて世の中が成り立っています。
ですから、全員が心を強くする必要はありません。
世の中が便利になればなるほど、人格的な成長をしていくことが大変になります。
「あるがままの自分」というのは、自分の気持ちを素直に感じて、そういう気持ちになる自分を自分が受け入れるということです。
「あるがままに振舞ったら、わがままで自分勝手になってしまうのではないか」と心配する人もいますが、振舞うのではありません。
自分のどんな感情でもその通りに感じてもいいのだ、そういうふうに感じている自分も自分なのだと、自分の気持ちも自分も否定しないで認めることが「あるがまま」です。
自慢話というのは聴いていて心地よいものではありません。
度が過ぎれば聞かされている方はうんざりしてきます。
自慢話が口からたくさん出てくるということは、自分のことをもっと分かってほしいという気持ちがどこかにあるからでしょう。
遊ぶ仲間や友人はいても、本人にしてみると自分のことを底から理解してくれてはいないと感じられているので、その空しさが自慢話となって口から出てくるのかもしれません。
生きていれば自分の能力では解決できない問題も出てきます。
その時に「乗り越えられない壁はない」とか、「神は、できない試練は与えない」とか、あるいは「この困難には意味がある」とか考えて自分の力だけでやろうとすれば、
うまくいくはずもありません。
うまくいかないだけならまだしも、問題が余計に複雑になったり、あるいは自分がつぶれてしまうことだってあります。
努力することは大切ですけれど、だからといって自力だけで解決しようと踏ん張るのではなくて、自分の能力でできそうもないことは私とか誰かの能力を借りることが大切です。
大人は子どもからとても多くのことを教えられます。子どもができるまでは全く気づかなかったことを、親になってから気づかされます。
それは子どもが本気で真剣になってぶつかってくるからです。
それで子どもに教えられて、やってみなかったことをやったり、深く考えるようになったりします。
あまりにもマジメに正論ばかり言うのは、結局のところ相手を悪者に仕立てて、自分が正義の人になって説教しているようなものです。
それでは相手を追い詰めて反発を招いてしまい、自分の意図した結果と逆の結果を生み出してしまいます。
私たちはみんな誰かに甘えています。
甘えていない人はいません。
その甘えがどういう形で出ているかで健康状態がわかります。
たとえば、人に「きちんと頼みごとする」という形で甘えることができる人もいます。
一方で、「人を批判する」「相手を見下す」という形でしか甘えられない人もいます。
あるいは「自慢をする」という形で甘えている人もいます。
外国人が「日本人ならこの本を読むべきである」と言うのが、オイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』という本です。
弓術(弓道)といえば、誰でも「弓で的を射るもの」と考えます。
「的を射る」行為をするものと考えます。
ところが弓術の師範は「そうではない」と言われる。
弓は意識的に射るものではなく、矢がみずから離れて飛んでいくんだと言われる。
「的を射るということを考えたら、もうダメなんだ」と。